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ヘリで先島の先まで飛んだ――日本最西端・与那国島視察の記
文・写真 内仲 英輔
(財団法人都市経済研究所評議員)
日本の最西端・与那国島(沖縄県八重山郡与那国町)をヘリコプターで視察する貴重な経験をした。
ことのおこりは,2月に行われた(財)都市経済研究所主催の「与那国自立ビジョン支援・東京会議」である。私は新聞社在職中に地域開発や地方自治の問題に長く関わったことから、この会議のアドバイザーとして参画したのだが、実は沖縄へは何回か取材に行っても、石垣島・西表島より先に行ったことがない。休憩時間の立ち話でそのことを研究所の会長に打ち明けると、会長は「実は私もだ。会社の観測用ヘリが沖縄にあるから、一緒に行きませんか」と誘ってくれた。会長は、環境調査を幅広く手がける国土環境株式会社の会長でもあるのだが、即断実行の人と見え、その場で手帳を出し、4月上旬の2日間を指定した。幸いその日は私の予定も空いていた。
会議の性格について述べるには、まず与那国島を簡単に紹介するのが早い。名前くらいは知っていても、それがどんな島でどこにあるのか正確に言える人は少ないだろうからだ。東京から1,900km、至近の石垣島からでも127kmの距離があるのに、台湾まではわずか111km。「日本」より台湾の方が近い。事実、日本復帰前、米軍施政下にある頃は台湾と自由に往来が行われ、貿易も人的交流も盛んだった。それが、日本に復帰したとたん、往来は不自由になり、続く日中国交回復によって台湾との交流の道はほぼ完全に絶たれた。盛時には12,000人もいた人口が、今はわずか1,700人ほどに激減している。ところが、先ごろの町村合併の波はここにも押し寄せ、遠く離れた石垣島(石垣市)を核とする合併話が持ち上がった。なにしろサトウキビ以外にこれといった産業のない小島だから財政は厳しく、それだけ考えれば、合併はメリットになる。しかし、地続きならともかく、海上120kmを隔てる合併は現実的でない。島民の気概は、中学生まで含めた住民投票の結果,合併を否決した。しかし、「独立」してやって行く成算があってのことではない。辺境の立地を逆手にとって、台湾との交流に活路を求める独自の「自立ビジョン」を打ち出したものの、これとて裏づけはない。そこで、島外、つまり本土の人たちの知恵も借りてみようと、町がこの研究所に計画策定を委嘱したというわけだ。
前書きが長くなったが、4月8日の沖縄地方は快晴。前日の羽田では強風が吹き荒れ、定期便の離陸が軒並み大幅に遅れたし、那覇到着後に聞いた天気予報も悲観的なものだったのが嘘のようだ。メッサーシュミットのエンジンを積んだ日独共同開発の双発ジェットヘリは、11人定員の機体を7人乗りに改装したもので、2列目はクッションのきいたセパレートの2席、3列目がロングシートで3人座れる。一行は、操縦士と整備士、会長と会社の沖縄支店幹部2人、都市経済研究所の若い研究部長、それに私の7人で満席である。
那覇空港は海に面しているだけに、風は少し強いように感じられたが、ヘリはふわりと浮き上がり、滑走路に沿って高度をやや上げた後、旋回して海上へ出た。那覇のような大都会でも、さすが沖縄の海の色は違う。高度を6,500フィートまで上げて水平飛行に移っても、視界をさえぎる雲はほとんどない。しばらくは、貨物船や漁船が眼下に見えたが、陸地から遠ざかるにつれてそれも見えなくなり、行く手は見渡す限り海ばかりという状況になった。観測用機だから、窓ガラスの一部が飛行中でも開閉でき、写真撮影がしやすいのが、ありがたい。ただ、時速120ノット=200km強ともなると、突き出したズームの望遠レンズが風圧でずるずる伸び出てしまうのにはてこずった。
単調な大海原の光景がしばらく続いた後、八重干瀬(やえびし)の上空に達し、ヘリはぐっと高度を下げて旋回してくれる。毎年旧暦3月3日に海面上に姿を現わすという大さんご礁群は、この日はもちろん海面下だが、陽光に透けてほぼその全貌が見てとれる。前方にはもう宮古島が見えていて、長い橋でつながった池間島を横目で眺めて10分ほどで宮古空港に着く。さわやかな初夏の気候。給油を待つ間、沖縄風の赤瓦をのせた斬新な外観の空港ビルのロビーで飲んだグアバジュースがなんともおいしい。
宮古を離陸して間もなく、ヘリは伊良部島に抱きかかえられるようにして横たわる下地島をかすめる。ほとんど人家の見えないこの島に立派な飛行場があるのだが、飛行機はおろか人影さえも認められない。日航、全日空の乗員訓連用空港だが、余り利用されていないとか。そのため、沖縄普天間基地の代替候補に擬せられてもいるらしい。
那覇―宮古間290kmに較べれば、宮古―石垣間130kmは、あっという間だ。
石垣島が近づくにつれて、石垣港へ出入りする船舶が引きもきらぬのがわかる。石垣島では、空港の移転が二十年来の課題で、第1候補であった白保の海上案が、環境保護運動に阻まれて変更になった。ヘリは、その白保の沖合を何回も旋回したが、光線の角度や水深などの微妙な違いによるのだろうか、七変化する水色の美しさに息を呑む。このすばらしい自然環境の汚染が避けられることになったのは本当によかった。
その後、石垣空港に着陸して再び給油。この機は普通のヘリコプターと違ってジェット燃料を使用しているが、終着の与那国空港にはそれが常備されていないため、ここで帰りの分まで積まなければならないのだという。石垣島周辺にも島が多く、まず石垣港対岸の竹富島。次いで観光開発が進んでゴルフ場やホテルが見える小浜島をあっという間に通過して西表島の東南沖へ出た。西表へは何年か前、短時間立寄ったことがあるが、そのときの印象で、ほんの小島と思い込んでいた。ところが上空から実感して見ると、大きな島だ。人口はわずか2,100人なのに、4万5,000人の石垣島を面積でははるかにしのぎ、八重山群島最大なのだった。
島の大半をジャングルに覆われ、一周道路さえない。人々は、海岸のわずかな土地に暮らしているのだが、その環境が天然記念物のイリオモテヤマネコを始めとする貴重な動植物を温存しているのだ。建設の是非が論議を巻き起こした初の本格的な高級ホテルも、この大自然の中では肩身が狭そうに見える。いくつかの河川がジャングルをさかのぼり、白い観光船が上がって行くのも遠望される。海側上空から眺めたこの島の海岸線も美しいビーチあり、近づきがたい断崖絶壁ありで変化に富み、石垣島からも近いので、本土資本が虎視眈々と開発を狙う気持もわかるが、やはりそっとしておきたいと改めて強く感じた。
西表から先は島らしいものも見えず、あっという間に与那国島に到着するが、それでも船なら4時間の航程である。与那国では、まず東端の東崎(あがりざき)が見え、海岸線(といっても絶壁が多いが)に沿って海沿いの空港に到着した。他に飛行機の姿は見えない。正午を大分回っていたので昼食をとることにしたが、空港ビルの食堂は営業しておらず、売店で売っていた地元産のカジキのかまぼこと揚げ菓子サーターアンダギーを機中に持ち込んで昼食に代える。このヘリコプターは、向かい合わせの客席の間に折り畳み式のテーブルがセットできるので、臨時の食堂の役割も果たす。
間もなく迎えに来た町役場の田里千代基さんにヘリに同乗してもらい、空から島をガイドしてもらった。周囲30kmほどの小さな島だから、一周はまたたく間である。機内の騒音はかなりのものなのに、ヘッドホンは全員の数だけわたらないので、折角の名ガイドが聞き取れなかったのが残念だが、ともかくも島のさわりだけはこの目にしかと焼き付けることができた。もっとも印象的だったのは島を取り巻く海の色の美しさで、それも島の東西南北で色合いが微妙に異なることだった。着陸後、今度は田里さんがマイクロバスにわれわれ全員を乗せて、地上1周ツアーのガイドをつとめてくれた。
島には3つの集落があるが、中央部北岸にある祖納(そない)が最大で、人口の半分以上が集中し、町役場や郵便局もここにある。集落のはずれにあるティンダハナタ遊歩道からその中心部を一望できるのだが、建物の多くが堅固だが味気ないブロックやコンクリートづくりで、昔ながらの赤瓦を乗せた沖縄風の住宅を期待する外来客にとっては幻滅だが、毎年のように台風の襲撃をうける土地の人々にしてみれば、防御の硬い建築に安全を求めるよりほかないのもよく分かる。それでも町中には、昔ながらの伝統家屋が軒を連ねる地域がまだ若干は残っていて、勾配のゆるい瓦屋根が、どっしりした石塀に囲まれて、厳しい自然環境に耐えてきた先人の知恵が生きているのを窺い知ることができる。
先ずは役場を表敬訪問するのが順序だが、ちょうど小、中学校の入学式当日で、町長、議長は手分けして回っていて不在。そこで先ず近くの伝統工芸館へ案内された。500年の伝統をもつという与那国織の作業場と展示場、後進に技術を教える教室などからなり、その作業工程を見学することができる。実際の反物はシンプルだが気品を感じさせるデザインで、手の込んだ織りだけに高価でちょっと手が出ない。
祖納の集落を抜けてなだらかな丘陵を行くと、空から真っ先に見えた東崎である。ヘリコプターから最初に見えた半島のような場所で、一面牧草におおわれ、与那国馬と呼ばれる土着の馬がのどかに草を食んでいる。牛も放牧されている。傍らでは2基の巨大な風車が回っており、島の電力の3分の2を供給しているという。灯台のある突端は断崖になっていて、眼下の美しいさんご礁の海は見飽きることがない。ここから比川(ひがわ)の集落へは島の南側を西進することになるが、海岸は断崖絶壁の連続で、そこに設けられた展望台からは、軍艦岩、立神岩(たちがみいわ)などの奇岩が見られる。何年か前NHKの大河ドラマ「沖縄の風」のロケもここで行われた。新川鼻(あらかわはな)という断崖の下は、島に数あるダイビングポイントの一つだが、海中余り深くないところに東西100m、南北30mにおよぶ人工のつくりを思わせる巨大な岩石構造があり、海底遺跡ではないかと近年関心を集めている。
比川はもっとも人口の少ない集落で、クルマエビの養殖場などがある。クルマエビは市況に左右されやすく、うまい商売とはいえないようだ。余談ながら、民報テレビの連続ドラマ「Dr.コトー診療所」のロケが行われたのはこの近くの海べりで、舞台となった診療所のオープンセットは観光用にそのまま残され、(本当はまだ新しいのだが)古びた面影をとどめている。その斜め前には小さな製塩所があり、ここで求めた産直価格で一袋(135g)1,600円という恐ろしく高価な塩は、しかしなかなか深みのある味で、調理に使うにはもったいないので、帰宅後酒やコーヒー!のつまみとしてちびちび味わっている。
比川を抜けて牧場を縫うようにして走ると、間もなく日本の最西端西崎(いりざき)である。灯台のわきに「日本最西端の碑」が立っている。島に2つある中学校の卒業記念に建立されたもので、裏面には島より石垣117Km、那覇509km、東京2,112kmと表示され、続く台湾111km、香港951km、マニラ1,124kmなどアジア各地への近さが強調されている。ここからは条件のいい日は台湾の島影が見えるはずなのだが、この日は残念ながら見ることができなかった。ふもとの久部良(くぶら)の集落にはカジキの一本釣りで知られる漁港があり、毎年7月には国際カジキ釣り大会も開かれる。最後に祖納にある農協の製糖工場へ立ち寄って「半日ツアー」は終了した。サトウキビは、この島の基幹産業で、収穫の繁忙期には、本土から「援農隊」を招いて人手不足を補うというが、収穫が終ったばかりの今は、ザワワザワワのサトウキビ畑は見られず、工場もひっそりしていた。私たちの宿舎「ホワイトハウス」はこの工場のはす向かいにある2階建てで、スリッパに履き替えなければならないのが奇妙だが、客室の設備はまずまずで、町の「迎賓館」としての役割を果たしているように見えた。
観光地としてのこの島は一級である。といっても、道路以外の観光インフラはほとんどなく、豪華な宿泊施設もない。観光バスはないし、路線バスも本数が極端に少ない(レンタカーはある)。名所旧跡の類も余り多くはなく、例えば本州最西端の岬は行っても売店一つない。しかし、その何もない素朴な自然がいいのだ。日本人が陥りやすい駆け足観光でなく、じっくりした滞在型の観光で命の洗濯をするには最適、第一級という意味である。しかし、致命的なネックはアクセスで、首都圏(羽田)からの正規運賃は往復13万円近くかかる。その上台風の通路に当たる大海の孤島だから、船便も航空便も天候に左右されやすく、欠航が続いて何日も足止めをくらうリスクもある。そこで、本土と較べてはるかに近い台湾から、交易だけでなく観光客も直接呼び込みたいというのが、町当局の悲願なのである。
町内を一周して感じたのは、立派な道路網が整備されていることだが、その割に交通量は少ない。集落ごとに信号機を見かけたのが不思議なくらいだが、これは島民が初めて都会地へ出た際まごつくことのないよう「教育用」として設置しているという説明だ。交番も見かけたが、事故も犯罪も多くはないらしい。そういえば、スーパーマーケットらしい店舗を一つ見たほかに商店らしいものはあまり見られず、もちろん個人商店がないわけはないから、看板も出さずに近隣を相手に商売をしているのではないだろうか。楽園のような与那国島にも恥部はある。小高い岡の上にあるごみ処理場だ。しかし実態は単なるごみの集積場で、処理施設はようやく今年度着工の運びという。
尾辻吉兼町長、東浜功一町会議長らとは夕食をともにした。与那国には観光インフラがないと書いたが、飲み屋の類いはしっかりあって、島特産の「どなん」という60°の泡盛をストレートで勧められた。こればかりは飲み干すわけに行かなかったが、水割りで飲めば結構いける。ところで、どなんとは与那国島のことで、「渡難」から来ているそうだから、昔から渡航は容易でなかったということだろう。
町長、議長から島の抱える課題を聞いた。与那国島には小、中学校はあるが高校はない。そこで、生徒たちは中学を卒業すると、石垣島や沖縄本島の高校へ進む。彼らは卒業後、大学進学にしろ就職にしろ、本島か東京へ行ってしまい、島へは戻って来ない。戻っても職場がほとんどないからだ。診療所はあるが、お産は石垣島の病院へ行くので、海が荒れて船が欠航でもすると大変だ。過疎地域としての悩みは深い。いま、島がもっとも期待しているのは、先にも触れた通り台湾との交流だ。周知のように中国と台湾は国交がないのに経済関係は密接だ。しかし、建て前上直接の貿易はできないから、両国間の貨物船はいったん日本の港を経由する形をとっている。現在はその中継港が石垣島で、空から見えたひんぱんに出入りする船の中には、こうした貨物船も混じっていたはずだ。この中継港の役割を与那国が果たしたいというのである。そうなれば、台・中間の距離も縮まり、与那国経済も活性化するはずだ。姉妹都市関係にある対岸の台湾・花蓮市との間に定期フェリ−を就航させる計画もある。だが、現在は港の規模が小さい上、入管、税関、検疫などさまざまな規制があって簡単には行かない。そこで、なんとか政府に「国際交流特区」として認めてもらおうというわけだ。これは難問である。こうした会話が尽きないうちに「どなん」がきいてきて、小洒落たバーでの2次会に移動することになった。
短時間の視察だったが、最果ての孤島であるこの島をめぐる環境はあまりにも厳しく、その活路を見出すのは容易ではないことはよく分かった。果たしてどのようなアドバイスができるのだろうか、改めて責任を痛感しながら、翌日午前与那国空港を後にした。この日も好天だったが、離陸の際もしやと期待した台湾は、やはり見えなかった。
(ジャーナリスト)
公開日:平成17年(2005)5月20日
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